2003年

ーーー11/4ーーー 完成見学会  

 白馬村の工務店「SD建築」から誘いがあり、同工務店が施行した新築住宅の完成見学会に、「安曇野穂高家具ギルド」の家具を展示することになった。要するに工務店と家具作家のコラボレーションである。工務店にとっては、室内に何も無いよりは家具が置かれていた方がイメージが良いし、また、来場者も入り易くなるだろうとの目論み。我々にとっては、作品の発表の場が設けられるのだから、悪い話ではない。見学会は11月の1〜3日の3日間に行なわれた。現場は豊科町、穂高から松本へ行く国道沿いにある。

 やはり家具を置くと部屋の雰囲気がぐっと良くなった。特に、木を多く取り入れた内装の家なので、無垢の家具との調和が良い。来場者の反応も良かったようである。

 メンバーの一人は、子供用の小さな椅子が売れた。私自身は、来場者からの引き合いは無かったが、工務店の社長からアームチェアのご注文を戴いた。現場で建物に関する色々な話も聞けて、なかなか楽しいイベントであった。

(安曇野穂高家具ギルドのホームページ http://www5f.biglobe.ne.jp/~k-guild/)

 

ーーー11/11ーーー 未来のエネルギー

 
長女が久しぶりに帰郷した。食事をとりながら、常々感じていた疑問をぶつけてみた。

「未来のエネルギーと言われる燃料電池だけれど、原料の水素を作るのに大きなエネルギーが必要なんじゃないの?」と。ちなみに娘は大学で化学工学を専攻している。

 返答は「そこが問題なのよ。水素は天然ガスのように地面から湧き出るわけじゃない。だから水素を得るには、石油などを高温、高圧で分解する必要がある。その際に多大なエネルギーを必要とするのよ」

 「でも、」とさらに続く「そこで注目を浴びているのが光触媒の技術なの。光触媒を使えば、メタンガスなどに光を当てるだけで水素が分離できるわけ」ちなみに彼女の専門は光触媒である。

 「だけれど、その光のエネルギーを発生させるのに、別のエネルギー源が必要となるでしょ」と私が突っ込むと、「理想的には太陽光線ね、無限に有るから。でも現在の技術レベルでは、紫外線などの強烈な人工光線が必要なの。そこらへんが今後の課題ね」とのこと。

 さらに私が「触媒を作るのにも大きなエネルギーが要るんじゃないの?」と指摘したら、「その点については、教授たちが力を入れて説明するのだけれど、必ず大きなメリットが有ると言うの。たしかに触媒を作るのにエネルギーは必要だけれど、一旦出来てしまえば、あとは繰り返し使えるわけ、触媒だから。そこらへんの仕組みによって、エネルギー効率は格段に改善されるということよ」だと。

 未来のエネルギーと言っても、最終的には太陽の恩恵を受けるしか無いというのが、この会話のオチでありました。このホームページの別項「木と木工のお話」の第11話「木は太陽エネルギーの缶詰め」にも、少し関連している話ではないでしょうか。

 

ーーー11/18ーーー 軽トラの便利さ

 
先週の土曜日に、埼玉県は所沢の材木店へ板材を仕入れに行った。長野道の豊科インターから入り、上信越道、関越道を経由して、片道260キロの道のりを日帰りである。しかも車は軽トラック。出発前の不安は隠せなかった。

 開業以来使ってきた1トン車を、この夏軽トラックに替えた。理由はディーゼル車の規制。もっとも二駆だったそのトラックは、冬場はほとんど使えない代物だったので、社内には遊休設備との批判が以前からあった。

 大都会では、軽トラックはおろか、軽自動車すらあまり見かけないかも知れない。しかし、郡部では大いに利用されている。黄色ナンバーは、なんと言っても経済的に有利である。そして小回りが利いて便利である。その中でも、軽トラックはたいへん使い勝手の良い乗り物だと思う。ちょっと買い物に出かけるのも、子供を駅まで迎えに行くのも、軽トラのお手軽感は他の車の比ではない。

 今回初めて軽トラックで高速道路を走ったのだが、事前の心配に反し、何の問題も無かった。150Kgくらいの荷を積んでも、馬力に不足は感じないし、走行も安定している。時速90キロ前後で走れば、快適そのものである。体が大きい私にとって、運転席は小さく感じるが、慣れてしまえば苦にもならない。座席シートに手製のパッドを挟んで、座り心地も改善された。

 燃費は良いし、高速料金も安い。その浮いた金の一部で、帰路馴染みの酒店に立ち寄り、お気に入りの小瓶を買って帰った。良い材木が手に入ったこともあり、長距離ドライブの後の一杯は、いつにも増して格別のものであった。
 
 
 
ーーー11/25ーーー ケーナ

 
4年ほど前から、ケーナという楽器に親しんでいる。これは南米の民族楽器として伝わる長さ40センチほどの縦笛で、葦や竹など中空の植物を素材として作られる。古くは動物や人の骨で作られたものもあったらしい。愛する人が亡くなると、その骨(大腿骨)でケーナを作り、それを吹き鳴らして亡き人を偲ぶということだったとか。ケーナの哀愁を帯びた音色を聞くと、そのような話もありうることだと思えてくる。

 笛の構造というか、音が出るメカニズムは、日本の尺八と同じである。リコーダやオカリナのように、誰でも吹けば音が出るというものではない。音色に憧れてケーナを手に入れたものの、音を出すことの難しさに耐え切れず、諦めてしまう人が多いという。そのかわり、長い修練によって演奏法をマスターした人にとっては、苦行の末の達成感も手伝って、ケーナは捨て難い愛着を感じる対象となり、人生の伴侶のような存在になる。

 つい最近になって、ケーナを新しいものに替えた。これまでも数本のケーナを手に入れたが、結局初期に買った1本だけを使い続けてきた。他のものは、気に入ったつもりで購入しても、いざ使い始めると馴染まなかったのである。ところが、最近になって購入したものは、とても気に入った。音の響きが良く、ばらつきが無い。そしてまた、見た目にも美しい。南米産の堅い木を筒状に加工して作られているのだが、木工品としても素晴らしい出来である。とかくケーナは民族楽器という位置づけのせいか、ラフな感じに作られた品物が多い。それでも音が出れば良いというのであろうが、私の気持ちとしては、やはり楽器というものは華が無ければつまらない。見た目の美しさも、大切だと思う。

 このケーナは、実はインターネットの通販で購入したものである。先方と2〜3回メールでやりとりをし、安心できると踏んで購入した。その狙いは外れていなかった。広島の「アンデス館」というところである。興味のある人は、サイトを覗いてみると良いだろう。アドレスは、http://www.andeskan.com/index2.htm 

 
(下の写真は、2001年に米国西海岸へ木工の取材に行った際に立ち寄った、レッドウッドの巨木の森 「モンゴメリー・メモリアル・パーク」にてケーナを吹く私)




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